好きなものは

オタクをしているとよく「じぶんの好きなものを好きと言えないのはいちばんカッコ悪い」ということばに遭遇しないでしょうか

わたし自身、好きなものを隠さないように意識していたことが長かったです。学生時代は、わざわざいま読んでいる文学についてのスピーチをして、プライドの高い教師や生徒に絡まれました。一人暮らししていたときのバイトでは、わざわざその都市や圏内しか想像できない仲間に地元の話をして、無知な田舎の少女扱いをされました

いま思うと、彼らを加害者にしてしまったのもわたしなのかもしれません
わたしは、その小説が好き、地元が好き、というのは自然な感情なのに、意識して表に出すようにしていた、ということでしょう。すぐに自慢っぽくなって、反撃されるのは当たり前でした
「愛は口に出すものではない」という考え方もあるのに、そのときは気づかなかったのですね







「好きなものは好きと言う」vs「愛は言葉にするものじゃない」



どちらの気持ちもわかるからこそ、いま考え方をまとめると、「好きなものは好きという」ことの下には「他人に関係なく、好きだから仕方がない。好きなのはじぶんだけの問題だ」ということがあって、それは「言葉にしなくていい」ということと矛盾しないのだということです
つまり、ふたつは同じことではないでしょうか







「好き」の気持ちは自分だけの問題なのに、ことさら大切にしてしまうと、自慢になるばかりでなく、相手の「嫌い」をないがしろにしてしまいます

この記事を書くきっかけは、以前ブロ解した苦手なひとが、忘れているのか、またわたしをフォローしたことでした
プロフィールを見れば、
「好きなものを好きと言えないのは恰好わるい」
「友だちに推し語りをしたらもはや宗教だねと言われて嬉しかった」
「うるさかったらブロックしないでリムってね。私は貴方の投稿が見たいから」
「気になるひとをどんどんフォローしています。フォロバの必要はありません」
など、一方通行の主張を繰り返しているではありませんか

主張が一方通行ではないひとは、まず好き語りを宗教だねと言われたら、相手に謝って、もうしつこくしないと思います
じぶんが好き語りする自由をもちたいなら、相手がじぶんをブロックする自由も認めなければおかしいです
そして、つぎつぎフォローするのではなく、プロフィールを見るのが思いやりです。じぶんがそのひとの地雷なのだったら遠慮すればいいのです


決定的だったのは、そのひとがコロナ禍のなかで差し入れをしようとしていることでした。「好き」というと抽象的ですが、じぶんの「好き」を「ウイルス」に置き換えて考えることもできそうですね

















(ひとの自由を守ることが自由だといいます。「愛は言葉にするものじゃない」という観念によってそれを思い出すことができます)












「好き」以外に新たなオタクのモティベーションが必要なのかもしれません。でもよく考えると、それは新しいことではなくて、とっくに普及していました

「好き」のなかに感謝があればその一方的な性質を超越できる、と思います。原作への感謝、仲間と出会わせてくれたキャラクターへの感謝、そして仲間が作品を見せてくれることへのありがたみです。普段から「好き」よりも感謝によって創作していれば、好きな絵師にフォロバしてもらえなくても、コミッションを無視されても、差し入れを拒絶されても、すんなりと納得できます
というより、ほとんどのひとが既にそうなのかもしれません

人気の投稿